論文名 |
背景無き初音ミク | 筆 者 |
東村光 | 秋葉原大学萌学部准教授 |
Title |
Process of Moe Charactor establishment from "HATUNE MIKU" | Auther |
Hikari Higashimura | Associate Professor. /The University of Akihabara |
初 出 |
萌例タイムズC73号 | 9-21項 | 2007年12月31日 | コミックマーケット73新刊 |
Source |
Journal of MOE archtechture No.C73 | pp.9-21. | DEC 31/ 2007 | ComicMarkets 73 |
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W. 背景無きキャラクターへの萌え
背景(ストーリー)に頼らないキャラクターは、インターネットの台頭によりその立ち位置が確立したと言える。それはキャラクターについて議論する場が、年に数回の同人即売会のみでは、あまりにもレスポンスが遅く、形成が進まないうちにそのキャラクターへの注目が失われてしまう [01]からであると考えられる。物理的な問題を超越するインターネットの特性は、キャラクターに萌える重要な素材である背景を、ヲタク自身の自給自足で賄うシステムに不可欠なインフラとして機能していると言える。しかし萌えに対する爆発的な人気は、多くの場合背景たるストーリーがあって初めて成り立っている。例えば萌え史上最大のインパクトがあるキャラクターたるマルチ [02]を例に考えると、ビジュアルの効果もさることながら、“泣きゲー [03]”と呼ばれるジャンルの始祖として、大きな共感を与えうるストーリーや細かな描写から萌えが見いだされ人気を集めた。このマルチにおける萌えとは、外見や設定などの単体の萌え要素から見いだされるものよりも、ストーリーに応じて展開される描写を通じた総合的判断の結果としての人気を得たと捉えることが妥当であろう。
一方初音ミクにおいては、総合的判断を下すために必要である外郭が存在しない。ビジュアルや声といった単発の萌え要素は存在するものの、それらはあくまでも独立した萌え要素であり、ストーリーにより結びつけられた状態で提示されてはいない。言い換えると、マルチにおいては“主観”により見い出されるべき萌え要素が中心となっているのに対し、初音ミクにおいては“客観”として与えられた萌え要素を展開させることで、萌えに至るのである。伝統的な萌えのあり方の下は、ストーリーによってキャラクターの評価が定まっている。あるキャラクターにどんなに萌え要素が与えられていたとしても、ストーリーが不十分であれば“イラナイ子”の烙印 [04]を押さえてしまうのである。萌えの中心軸はキャラクターよりも、むしろストーリーに重きを置かれていたのである。
ここでストーリーは、必要な情報を全てパッケージした萌え展開における限界境界を示す役割を果たしている。キャラクターにおける細かな描写をストーリーという膨大な情報量の固まりを通じて提供することにより、キャラクターについての規定は細かい点まで為されることになる。二次創作では、原作において描写された内容は原則として踏襲 [05]することが求められる。そしてストーリーによりに具体的な妄想 [06]が可能となるのである。
キャラクターにとってストーリーは、保有する萌え要素以上に重要な要因となるものである。それはキャラクターの全体を規定する大枠として、そのキャラクターの全てを定める絶対の概念であり、どんなに魅力的な萌え要素が存在しても、それはストーリーを通じて描写されるキャラクターの引き立て役に過ぎないのである。
ゲームなどにおいて、エンディングのあるヒロインよりもエンディングの存在しない脇役に人気が集中する事例が見られる。 With You 〜みつめていたい〜における伊藤乃絵美 [07]や Kanon における倉田佐由理 [08]の存在などが挙げられる。これらの脇役は、一見すると背景の存在しないキャラクターと同様の二次創作を初めとする情報の補完により確立したキャラクターと捉える余地が存在するように見える。しかし実際は、メインヒロインと同様にストーリーの中に萌えの主軸が存在するキャラクター [09]である。メインヒロインを引き立てるストーリーの描写中から萌え要素を見いだし、さらに自由な妄想により強化するという構造が脇役には存在していると考えられる。
この脇役における萌えの集中傾向は、伺かにおける萌えの形成プロセスの前段階であることが指摘できる。しかしあくまでもキャラクターへの着目はストーリーという巨大な体系的情報(背景設定)の中から端を発しており、断片的な情報の提示に端を発する伺かとは、その出自が異なる [10]という点から、別の分類を持って捉えるべきであろう。
しかし伺かにおける人気の集中と脇役に人気が集中する構造 [11]は、近似するものである。それは共に妄想による自由度が広く、より自分が求める理想に近い萌えのあり方を投影出来る点に由来するものであろう。ここから脇役への人気の集中という形を通じて、ストーリーを自分の希望する方向へ自給自足による補完という手法が徐々に確立していった。そして脇役においては、ストーリーの延長という推測の域を出なかったものが、インターネット上でヴィジュアルが先行したキャラクター群に対しては設定の創作という形の補完へと発展を遂げた。現実においては、推測から創作への発展は同時並行的に行われたが、脇役への人気の集中が若干ながら先行したことから、萌えの全体的な成熟という観点からは、以上のようなプロセスを経ていると解釈することが妥当であろう。つまり脇役への人気の集中は、萌えの純粋な受容者から創作者に至る過程の途中形態と具体化であり、ストーリーの影響力から脱却 [12]しようとするヲタクの成果であるのだ。
ストーリーが与える具体的な萌えと、ストーリーが存在しないことによる萌えの理想化の両者は、相容れないものではない。様々な萌えを見いだすためにはストーリーが必要であり、同時に現在の大量消費型の萌えのみでは、自分自身の萌えを満たすことが必ずしも可能になるとは限らない。萌えを得る場合はこの両者を使い分ける事が必要とされているのである。
しかしストーリーに強く依存することは、自分の求める理想型の萌えと眼前に表れた原作中におけるキャラクターが保有する萌えの傾向が合致する期待値を低くさせる。より効率的に萌えを得る [13]為には、ある程度の萌えの自給自足を行うことが要求される。それは萌えについての経験を重ね、自分の中における萌えを熟成させることで、自然と妄想を行うことが出来るようになり、ストーリーや与えられた萌えを咀嚼し、理想的な萌えのあり方に近づくことが達成される。この誰もが経験するプロセスを集団レベルで実現出来るようなったことが、背景無きキャラクターの成熟であり、引いては萌文化全体の成熟なのである。
初音ミクが爆発的なヒットを遂げた最大の要因は、具体性を連想させつつも、実際は何一つとして具体性が提起されなかったことによる。特に声を自由に制御する事が出来るボーカロイドとしての特徴は、あたかも声を通じたストーリーが細かく描写されているかような錯覚を引き起こす。初音ミクが歌う事により、歌詞にて描写された内容は初音ミクにとってストーリーの役割を擬似的に果たし、さらにオリジナル曲を通じて初音ミクのあり方に自分の理想を投影できるのである。
次にニコニコ動画という初音ミクによる創作作品 [14]を投稿するのに適したコミュニティの存在がある。ここでは初音ミクを補完する情報のやり取りが短い期間に高い密度で行われ、その中にはソフトウェアとしての技術的なやり取りから、“消失事件”について注意関心を集める媒体としての役割、そして初音ミクへの萌えの具体化を、同人誌・ゲームという従来の典型的な媒体の機能を集約できる動画という形で連続し、提示され続けた。またニコニコ動画というコミュニティには、萌えに対する適応性が高く、初めから初音ミクという背景の無いキャラクターに対する扱い方を心得ているだけの萌文化的成熟があった。
2005 年に頂点を迎えたと目される萌えブームは、現在では幾分か落ち着きを見せているが、その渦中を通じて萌えについての一定の教養見地が養われたヲタクに対し、自由度の高いキャラクターが提示されたこともまた僥倖であった。背景が無いキャラクターに対する接し方は、 OS たんなどで十分に訓練され、そしてまた様々な解釈を作品に託すことで、初音ミクに対する萌えは爆発的に膨れ上がった。初音ミクの徹底した背景の無いキャラクターとしての位置づけと、そこからはじまる自由な妄想を具体化する要因がうまくかみ合わさった結果、初音ミクという存在は一大ムーブメントとして萌えの歴史の中にその名が記されることになったのである。
初音ミクはヲタクの萌えの理想の投影先として、そして集団による自発的な萌えの具体化の成功例として、これからも多くのヲタクを魅了し続けることであろう。かつてヲタク達を魅了したマルチから 10 年後、人ではなく創造物であるボーカロイドとして初音ミクが我々の前に姿を表し、大きな支持を集めたことは、まさに 90 年代に始まる萌えの歴史が、全体としての成熟という一点を通過しつつあることを象徴するものであり、飛躍的に発展を遂げた萌えの諸類型の具体事例としてこれからリリースされる鏡音リン・レンと共に新しい萌えの魅力を萌文化に向けて発信することを強く期待する。
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