論文名 |
メガネ萌えは違憲 | 筆 者 |
東村光 | 秋葉原大学萌学部准教授 |
Title |
Unconstitutionality of Glasses | Auther |
Hikari Higashimura | Associate Professor. /The University of Akihabara |
初 出 |
萌例タイムズC71号 | 9-12項 | 2006年12月31日 | コミックマーケット71 |
Source |
Journal of MOE archtechture No.C71 | pp.9-12. | DEC 31/ 2006 | ComicMarkets 71 |
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目 次
T メガネ萌えの正体
V メガネ萌えは違憲
最初に、内容について述べる前に断っておくべき事柄がある。本稿はメガネ萌えを否定する趣旨のものではない。私の主義主張に関わらず世の中にはメガネ萌えという属性が厳然と存在し、大きな賛同を得ている。そしてメガネは生活に必要不可欠である。私自身、極度の近視であり、メガネのない生活などは最早考えられない。例えば日常生活を行う上で、メガネは必要不可欠な要素であり、生存の不可欠な食事時にもしメガネがなければ、私は箸がどこにあるかすらも分からずに餓死してしまうだろう。私はメガネを尊敬している。しかし尊敬しているが故に、メガネについて考察を行うと、メガネは違憲であるという結論に達してしまわざるを得ないのである。
本稿では、メガネが萌え要素ではないということを理論付けると共に、メガネは萌えの価値観から、どのように扱われるべきかという点について、萌えを研究する諸氏に問題を提起する。
メガネ萌えとは、メガネの持つ特殊性を着用することで萌えが発生・増加する諸現象のことである。しかしこの定義には、大きな論点が存在する。それはメガネ自体に萌えているのか、それともメガネをかけている存在に萌えるのかという論点である。
もしメガネに萌えているとするのならば、メガネを掛けている全ての存在が萌えの対象となるのであろう。そのメガネがサングラスであろうと鼻メガネであろうと、そこにメガネがある以上は、どのような人物が、如何なるメガネを掛けていようとも、萌えるべきなのである。もちろん現実に鼻メガネ萌えというジャンルは形成されておらず、メガネ萌えの中にサングラスが含まれているという一般的解釈も支持され得ないだろう。では、メガネに萌えているのではなく、メガネを掛けている存在に萌えているのだろうか?
メガネを掛けている存在に萌えるという定義は、一見、正しいように思われる。しかしもしメガネを外すと、その瞬間にメガネにより生じた萌えは消失するのだろうか? 実際に存在する萌えの要素はメガネ+αの複合体であり、メガネを取り除いたところで全ての萌え要素が失われてしまうという訳では決してないが、萌えの主たる部分をメガネに依存していた場合、メガネを外した瞬間に、その萌えの対象に対する興味関心は失われてしまうのだろうか?
これらの仮説が極論であるというのは十分承知の上で、疑問を投げかけた。この極論から私が提起したい論点をより具体的に述べると、メガネ萌えの中心はどこにあるのかという事についてである。メガネという装飾品に萌えがあるのか、それともメガネにより引き立てられた存在に萌えが生じるのか。確かにメガネというアイテムを軸に生じる萌えは存在する。しかしその萌えの具体像が掴めないのである。
参考までにメガネと類似した服飾品に由来するスクール水着萌えについて考えてみる。スクール水着萌えは、スクール水着自体に萌えがある。もちろん着用する主体があってこそのスクール水着であるが、趣味者の中にはスクール水着を単体で収集し、壁面に飾ることで萌えを得るものもいる。スクール水着の形態を調査し、旧型の水切りに萌えを見いだす事例は、ヲタクであれば容易に想像がつくであろう。
しかしメガネは違う。少なくとも一般的にメガネに萌えているという事例は、メガネを着用している状態を想起しているのではないだろうか? 持主不明のメガネが忘れ物如く窓際に放置されていても、そこから萌えを見いだすことは出来ないのではないだろう。少なくともメガネ単体に萌え要素があるという考え方は、大多数からの支持は得ないだろう。
結局、メガネ単体は、スクール水着などの特殊な存在とは異なり、あまりにも日常に密着しすぎている。スクール水着が単体でも萌えを生み出すのは、スクール水着の存在が着用者を具体的に連想させるからであり、その連想される存在は、萌えの源泉となりうるキャラクターである。しかしメガネは溢れすぎているばかりに、メガネの着用者を具体的に連想させることが難しい。それはメガネが普遍的存在であり、ありとあらゆる存在がメガネを掛ける可能性を持ち、メガネから連想される範囲が、スクール水着のそれよりも広範であるからだ。メガネを掛けるキャラクターが萌えの源泉たり得る二次元美少女とは限らず、むさいキモヲタである可能性もある。
だが、以上の議論のみでメガネ萌えとはメガネを掛けている存在に萌えるということで、 FA [1]となる訳ではない。メガネを外したキャラクターに対する萌えを説明し得ないのである。
先に前提となる議論として、巫女服を脱いだ巫女について検討する。巫女に萌えると言うことは、巫女服に萌えると言うことと、ほぼ同義として捉えられている。巫女服という要素を付与された存在に萌えを感じることで、巫女萌えが形成されているのである。
では巫女服を脱いだ巫女に対しては、巫女としての萌えを感じ得ないのかと言えば、必ずしもそうではない。この背景には、巫女のアイディンティティが巫女服ではなく、巫女であるという自覚 [2]に由来していると考えられるからだ。巫女であるという設定付けが充分に為されているからこそ、巫女服を脱いだとしても、彼女は巫女であると我々は認識し、萌えを継続して感じるのである。このような芸当が可能であるのは、巫女という設定が持つキャラクターへの支配力が強力だからであろう。例えば巫女服を脱ぎ、メイド服を一時的に着たとしてもそれは“巫女さんがメイドのコスプレをしている”と認識されるという事例で考えると、その状況に至るまでの過程を通じて、このキャラクターは巫女であるということが確立してしまう。そしてキャラクターの根底にある巫女という部分が刷り込まれ、もはや巫女以外として認識することが出来なくなってしまう。故に巫女であるとの認識が確立したキャラクターは、どのような服装を身に纏ったところで、根底の巫女の部分から逃れることが出来なくなってしまうのだ。
だがメガネにはそこまで強力な支配力が存在するとは言い難い。確かにメガネを掛けていることで、メガネっ娘との認識が刷り込まれはするだろう。だがそのキャラクターが翌日にメガネを捨て、コンタクトレンズを付けて目の前に表れたら、それはメガネっ娘ではなく、単なる近眼矯正っ娘になってしまうのではないだろうか? メガネの支配力の弱さは、メガネがそのキャラクターの根幹に関与し得ないオプションとしての萌えにすぎないという点に由来する。巫女やメイドなどという要素は、キャラクターの設定の根幹に関わるものであるが故に強力な支配力を持つ。つまり、そのキャラクターが巫女でないと作品 [4]が成り立たなくなるのである。
だがメガネは外観を引き立てる以上の役割を現実には果たし得ない。故に支配力は弱く、メガネっ娘の代表例として語られる“委員長”タイプのキャラクターであっても、裸眼視力が良ければ“メガネ無き委員長”として成立してしまうのである。故にメガネが無くても萌えが成立してしまう以上、メガネがあるから萌えるということは、ロジックの中では否定されてしまうのである。
古き良き時代のメガネのあり方として、メガネを外すと実は美少女という描写が多く見られた。しかしこれはメガネ萌えとは、ほど遠い事例でもある。よく考えて欲しい。メガネを外すことでキャラクターに付与された萌えが発揮されるのであれば、メガネは萌えに対しマイナスに働いていくことになる。つまりメガネにより魅力・萌えが抑制されてしまっているのである。メガネを外したときの方が評価が上がると言うことは、すなわちアンチメガネということであり、メガネは障害物以外の何者でもない。
現実においてもメガネはネガティブなイメージを伴って語られることが依然として多い。
メガネにはどこか暗いイメージがつきまとっていることは事実である。例えば色気のないガリ勉の象徴として用いられるのは牛乳瓶底のメガネである。“キモヲタ”という言葉を耳にしたとき、思わずメガネを掛けている姿を想像してしまうことはないだろうか? メガネ自体に罪があるわけではないが、メガネに対するネガティブな印象は厳然と存在する。もちろん逆に誠実な人の記号として、柔らかな印象のある丸メガネなどのポジティブなイメージも存在するが、ポジティブなイメージによりメガネの持つネガティブなイメージを完全に消し去る事が出来るわけではない。
このメガネの持つネガティブさを萌えの引き立て役として用いたのが、前述の“眼鏡を外すと可愛い”という表現手法であろう。
メガネを掛ける主体について、漠然としたイメージは存在する。その一つは無口な図書委員 [4]であり、もう一つは委員長である。他にもドジっ娘なども挙げられるだろう。だが、このようなキャラクターは、一般的な学園物の作品中において、メインヒロインとなることは極めて希である。メガネを主題に据えるような作品は別として、大多数の作品においてメガネキャラクターは脇役として据えられ、その扱いが良いとは決して言い難い。その状況は、名門ゲームブランドである Key の作品 [5]に、突出したメガネキャラクターが存在しない辺りからも伺うことが出来るだろう。
萌えの世界には、一般社会にあるほどの強いネガティブなメガネ像というものを明確には認め得ないが、相対的に見たとき、さほどメガネの地位が高いとも思えないのである。つまり萌えの社会においてもメガネの持つイメージは、傍流であり花形の萌え要素では決してない。
そもそもメガネの求心力という意味から見ると、前述のメガネが似合う主体について考えてみても、それらのキャラクターはメガネとの適性が良いだけで、必ずしもメガネが無いと成立しないものではない。これは例えばメイド服を全く着ないメイドに、メイドとしての萌えを感じ得ないこととは異なる現象である。
つまり萌え社会におけるメガネのイメージとしては、無くてもいいが、あればコアな需要に応えることが出来る程度のものではないのかという捉え方が成り立つ。
メガネとは本来、視力を矯正する為にかけるものであり、単純にその機能だけを追い求めるのであればコンタクトレンズが2つあれば事足りる。もしくはレーシックなどに代表される視力矯正手術を受けることでも、メガネを掛けているのと同等の状態を手に入れることが出来る。つまり現代社会は、私たち人類にメガネ以外の選択肢を用意して待っているのだ。世の中の近眼は、既にメガネに縛られてはいない。むしろメガネを捨て、コンタクトに乗り換え [6]られつつある。
メガネはダサいという主張も増加し、メガネの呪縛から逃れることがファッションの流行とすらなりつつあるのだ。対抗するメガネ業界も、高級ブランドの手によるフレームの開発や、デザイナーの手によるファッションとしてメガネを意識した商品を投入し、決してメガネは押されるだけではない。だが確実にメガネは厳しい競争に立たされている。無理にメガネを掛ける必要が無くなった現代社会の中で、メガネはその優位性を失い、メガネの地位は相対的に低下しているのだ。
萌え要素の中でメガネに萌えるということは、決して近眼に萌えると言うことと同義ではない。我々は視力に萌えているというわけではないのだ。故にコンタクトレンズなどの代替メガネには特段の興味を示さない。ではなぜメガネに萌えるのかというと、それは顔面の装飾品としてメガネが存在するからであろう。“オサレ [7]なフレーム”でさえあれば、度が入っていない伊達眼鏡でもメガネ萌えの対象になりうる。しかしそれはある意味でメガネに対する冒涜ではないだろうか? 視力矯正に寄与しないメガネに、メガネとしてのアイディンティティが残るのか? 結局、萌え要素としてのメガネに求められるのは、顔を飾るという用途のみであり、その他には全く役に立たないメガネで充分なのである。
メガネを外したメガネっ娘に、存在意義はあるのだろうか? 少なくともメガネ萌えの観点から、メガネを外したメガネっ娘には最早メガネっ娘としての萌えは残らないと考える。ではこのメガネを外してしまったメガネっ娘は、一体何なのであろうか?
先に述べたようにメガネの人格形成への支配力は強いとは言いがたい。つまり「自分はメガネっ娘である」というアイディンティティを強く持たせるほどの影響力は、メガネに見いだすことは出来ない。これを逆に捉えると、上の問いの答えになる。すなわちメガネっ娘という存在は、初めから成立していない。
メガネっ娘が成立する為には2つの条件が必要である。1つはメガネを常時使用し、メガネを掛ける者として相応しい言動を行うこと、もう1つはメガネっ娘にメガネならではの価値を見いだし、メガネっ娘であると認定する者の存在である。このうち、後者はメガネファンにより容易に達成できる条件である。しかし前者は違う。一般的に自分は委員長であるというアイディンティティを有することはあるが、その委員長という身分がメガネに由来していると自覚している者は存在しない。この議論から1つの焦点が見いだせる。メガネ萌えとは、一方的に萌えを感じるのみの極めて身勝手な萌えであると言わざるを得ないのだ。萌えが主観的な存在である以上、これらの捉え方は一見問題がないように思える。しかしこれは単に、メガネを付けているという外見のみを以て妄想を膨らませることで萌えを増進しているだけであり、メガネに対して機械的な反応を返しているに過ぎない。確かにメガネから萌えが生じることもあるだろうが、あくまでもパーツとしてのメガネに萌えているだけであり、キャラクターに萌えているとは言い難い。故にメガネに対する萌えは幻想 [8]に過ぎないのだ。
メガネ萌えは相手の意識に関わらず、一方的に萌えを見いだし、相手にその萌えをさらに増進させるように働きかける。しかしそれは、相手の自由を束縛することに繋がるだろう。もし貴方の目の前にパーフェクトなメガネ少女が存在し、貴方のメガネ萌えを大いに刺激されたとしよう。しかし彼女がコンタクトレンズにしたいと考えたとき、それを無条件に受けいれることは出来るだろうか? もしくはとても魅力あるメガネを三次元の萌えを感じる余地すら見せない実のリアル妹が掛けていたら、貴方は怒りのあまりにそのメガネを剥ぎ取ってしまいはしないだろうか? 激しくボーイッシュなメガネにそぐわない行動を取る人物に対し、もっと委員長らしく振る舞うように強要することはないだろうか?
これらの問いかけは、現実にありうる可能性を極度に飛躍させたものであり、非現実的な次元にまで発展させている。しかしこの問いかけの真意はメガネ萌えが憲法により規定された基本的人権を大いに侵害してしまう可能性を示唆しているのである。
メガネのどこがいいのだろうか? この論点に対する答えを見つけることは非常に難しい。世の中にはメガネが溢れかえり、デザインも千差万別である。例えば激しい主張が見られるセルフレームメガネに憧れる者もいれば、洗練されたノンフレームメガネを好む者もいる。中には古き良き瓶底メガネをこよなく愛する者もいるだろう。メガネと一括りにしても、その中には溢れんばかりのメガネが詰まっている。そしてメガネを掛けることで、メガネ萌えが生じる。だがその萌えは萌える対象者ではなく、掛けられたメガネへと向かうのだ。萌えを感じる側は、当然の事ながら、メガネを掛けた相手に対し、萌えが生じやすいように、メガネに相応しい態度を暗黙下に要求もしくは期待する。そしてメガネの恐ろしい面はここにあるのだ。メガネ着用者の意志・意識とは無関係にメガネを掛けていると言うだけで、メガネに相応しい言動や立場を要求されてしまうのだ。これは憲法に定められている自由権に明確に反している。
自由権とは一般的に精神的自由と肉体的自由から構成されているが、メガネの着用を強要されることは、肉体的自由の侵害にあたり、メガネっ娘に相応しい言動を要求されることは精神的自由の侵害につながる。そしてメガネを外すだけで、その相手に対する扱い方が変わるのならば、それは差別であり平等権の侵害である。
メガネ萌えが憲法に抵触するのは、メガネ萌えの観念が明確に定まらず、萌えの対象者に多大な負担を掛けるという構造に拠るものである。メガネに萌えるのならば、メガネ単体に萌えればよいのであり、メガネを掛けている人に萌えるのならば、その人の仕草や言動から琴線に触れる萌えを見いだせばよい。しかし現実のメガネ萌えは、両者の中間点にある曖昧な部分から萌えを抽出してしまっている為に、メガネ萌えを達成する為にメガネっ娘を犠牲にしなければならない。
この問題が表面化しなかったのは、メガネっ娘の実際の行動と要求されるものが乖離しなかっただけであり、もしこの均衡が崩れれば原理的なメガネ萌え派が、過激な行動に出る可能性すらあるだろう。
最悪の事態を防ぐ為には、メガネ萌えのあり方を根底から問い直し、メガネに萌えるのか、メガネを掛けている人に萌えるのか、もしくはメガネが生み出す萌えの源泉たる“何か”を発見しなければならないだろう。
最後に本稿の趣旨として、ネタはネタとして見抜いて頂きたい。私も本気でメガネ萌えが憲法違反に直結しているとは考えていない。しかしながらこの論文の中で提示したメガネの萌え全体における特殊性や、メガネ萌えはキャラクターではなくメガネというパーツに萌えるという視点、そしてメガネ萌えに見られる独自の支配影響力については、これからメガネ属性のある諸氏との議論を通じて、その内実を深めていきたい。私にメガネ属性はなく、コンタクト推進派である。それは私自身がメガネを着用する者であり、仮に私にメガネ萌え属性があるとすれば、毎日鏡を覗くたびに自分に萌えてしまう危険性を有しているからである。
今一度、本稿を契機にメガネ萌えが萌え全体から見てどのような位置付けにあり、その性質を明らかにする為に、どのような議論が必要なのか考えていきたい。
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